鉄オタという人種がいるのは知っている。
鉄道ものが好きで好きでたまらない人たちだ。
しかしおいらにとっては、鉄道の何が面白いのかさっぱりわからない。
鉄オタにしてみれば、天文趣味の人のことがわからないのと同じだ。
(両方好きな人ももちろんいる)
鉄オタの人は、子供の頃から鉄道に親しんできた人々なのだろう。
おいらは田舎の更に田舎で育ったので、鉄道は全然知らない。
鉄道に乗ったのは修学旅行くらいしかなかったのだ。
初めて自分一人で鉄道に乗ったのは、確か大学の受験だったかな。
一人で東京に行ったのはもう少し遅いが、駅で迷子になったり、
行先がわからず駅員に聞いたり、
鉄道はなんて面倒臭い乗り物なのかと思って、ずっと嫌いだった。
流石に20代後半からは迷うことなく鉄道や電車に乗れるようになったけど。
こんな人間は鉄道の面白さなんてわかるはずがない。
鉄オタは、確かに常人の理解を超えた価値観で動いているのは確かですね。
私の妹の子供にも鉄オタが居て、交通局の催し物に行っては、廃品になった駅名プレートとか何か訳の分からない装置を部屋に転がして、満足しています。親が鉄道の運転士だったので、仕方ないかもしれないけれど。(笑
昭和の時代、蝦夷地は鉄道が物事の中心でした。鉄道が生活や文化の搬送手段。同級生や先生の転校での送迎は鉄道駅が舞台でしたし、学校の四季の休みに実家に4時間かけて帰省するのは鉄道一択でした。
中学の時、同級生の女の子が入院して、隣町までみんなでお見舞いに行くにもバスでなく鉄道を使いました。私の担任の先生は、「子供の頃鉄橋で遊んでいて、鉄道を止めたことがある。」なんて話しているくらい、普通にあるものでしたね。
今は、道内のかなりの路線が廃線となり、私の故郷に行く手段は都市間急行バスか車。あれだけの栄華を誇った駅舎と日本通運の建物もすっかり寂れ、そして解体されて跡形もなくなるのを見るにつけ、時代は変ったと実感します。
50年以上前の小学生の頃、担任の先生から質問があって、「鉄道とバス、どちらが優れた交通か?」とあって、クラスのみんなは鉄道(大型の資材の運搬を得意としてますよね)と答えていましたが、私ひとりだけ「バス」と答え、先生が意外な顔をして「何故?」と聞いてきました。
「バスなら線路の制限なしに、道さえあれば自由にどこにでもいけるし、大型の資材だって大型のトラックがあればどうにでもなるし。」と答えました。
それから50年経って、幸か不幸かそのとおりになったなあ、と実感するところです。
都市部は、むしろ路面電車が復活する方向にシフトしてきているのを実感します。私の街も路線が少しづつ復活しはじめました。利用者も増えました。行政は、パークアンドライドという西欧の都市のような使われ方を目指していますが、ちょっと中途半端かも?
n2068ddさん、こんばんは。
50年前だと、国鉄が全盛期の頃ですね。
北陸トンネルが日本一長いトンネルの時代だったころですか。
そのころは、50年後の鉄道がどうなっているかを想像すると日本全国に新幹線が走っていると答えたかもしれません。ちょうど田中角栄の時代だったし。
鉄オタと普通の人間との違いは、
例えば鉄道で名古屋から新潟に行く場合、
普通の人間:東海道新幹線と上越新幹線で最短時間を考える
鉄オタ:北陸本線ルートにするか、高山本線ルートにするか、飯田線ルートにするかを悩むのにご飯10杯お代わりできるような人、
さらに、乗り継ぎも含めて所要時間、乗り換え回数、途中の車窓からの見どころをあーだこうだと1日でも2日でも考えを巡らす
といったイメージで考えていますが、どうなんですかね。
いや、確かに(笑
彼らの頭の中には、どの時間帯にどの型番の電車が何両編成で走っているかとか全部入っていますからねぇ。
いや、常人の敵うところでは無いです(笑。
私の会社の後輩にも「その類」の人がいて、今日履く靴から、ネクタイ、ワイシャツのピンみたいな留める金物、腕時計それから財布、全てのコーディネートを決めるのに2時間以上かけるので、嫁さんがあきれ果てている人がいます。
たぶんそれと一緒なのでは?と。彼も若い頃はSLマニアでしたからね。SLの話をしだしたら止まらない? 危険なのでしませんが。
ところで、
北陸トンネルが一番だったんだ。
知らなかった。
確かにその当時は、国鉄での旅行が大ブームで、道内には若い旅行者だらけでした。
どの列車も満員で、私など帰省時には車両の連結部でずーっと立ってましたから。
乗り換えて特急に乗るのですが、3年間で指定席が取れたのはそのうち半分くらいで、2時間くらい立ったままなのは普通でしたね。
稀に食堂車を開放してくれるようになったのは、食堂の利用者が減り始めた兆候だったとずっと後から気付きました。
あの頃は優雅に食堂で食事が出来ましたから。
n2068ddさん、こんばんは。
当時福井県にはこれといったものがなく、北陸トンネルは当時日本一の長さというものが誇らしかったんでしょう。
その長さが仇となり、小学生のころ、北陸トンネル列車火災事故があり数十人が死亡した国鉄最大級の惨事を起こしました。
食堂車から火が出て、トンネルの中間付近の場所で救出活動が困難だったようです。
当時はまだ災害対策や難燃素材といったものはなく燃えるに任せたまま、一酸化炭素中毒や煙に巻かれた人が多かったようです。