藤原道長が若くて無名だったころ、
紫式部の父である藤原為時は漢詩・漢学に秀でていたが下級公家であった。
後の花山天皇となる師貞親王の教育係を務めた為時は、
花山天皇即位にあやかって少しは出世した。
花山天皇の次は一条天皇となるわけだが、
ここで道長は、色々権謀術数を駆使して権力の座を手に入れる。
為時による「苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」の句を
(意訳:苦労して勉学に励んでも報われない)
一条天皇が大いに悲しみ、淡路守の国司に決まった直後に
道長が手を打って越前守の国司に変更したという。
(当時、淡路は小国で越前は大国であったため、かなりの出世をした)
実際には、若狭や越前は宋との貿易を行い、
宋の商人相手には、漢学に優れた為時を選任したのが実情であったらしい。
紫式部(この時20代)は父と一緒に越前へ行く。
その前、藤原宣孝(紫式部の20歳くらい年上)から言い寄られていた。
越前には1,2年ほど滞在し、単独で京に戻り宣孝と結婚する。
しかし、数年後に宣孝は死去。
紫式部はシングルマザーとして生きてゆく。
源氏物語制作はその後となる。
この時代、登場人物が藤原姓ばかりで誰が誰だかよくわからない。
藤原氏のルーツは、大化の改新(乙巳の乱)で有名な中臣鎌足だ。
こいつは蘇我氏を滅ぼし朝廷主体の政治を行ったとされるが、
権力争いのために蘇我氏を滅ぼした(黒幕はいたらしいが)。
藤原姓に変更し、その子、藤原不比等により一大勢力となる。
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